遠寿院

〒272-0813
千葉県市川市中山2丁目3-2
TEL:047-334-2386 FAX:047-332-8157

縁起

 正中山遠壽院は「根本御祈祷系授的傳加行所」と称され、また「荒行堂」とも通称されるように正中山修法の相伝を使命とする加行道場をして、約四百年の伝統と歴史を有する、日本仏教界でも特異な寺院である。


 日蓮聖人に深く帰依して檀越(だんのつ)となった富木(とき)常忍は、文応元年(1260)、館の傍らに一宇を建立して妙連山法華寺と号した。そして、弘安五年(1282)、日蓮聖人の入滅後に出家して日常と名のり、法華寺の法灯を継いだ。当時、同じく有力な檀越であった太田乗明もまたその館を改めて本妙寺と号したが、乗明の遷化に伴い、日常上人が本妙寺に移り、両寺一主の制を定め、寺号を本妙法華経寺として中山門流の中心となった。その後、元徳三年(1331)、三代日祐上人のときに両寺が合併して正中山法華経寺と号した。


 この法華経寺の開基日常上人には、宗祖日蓮聖人より、末法の行者息災延命所願成就の祈祷として、撰法華経祈祷肝文をはじめ、すべての祈祷秘法が直接相伝された。

 この秘法は唯授一人の秘法とされ、日常上人より二代日高上人へ、そして三代日祐上人へと、代々相伝されてきたが、十代にちごん(にちごん)上人のときに、日蓮聖人の理想である一天四海皆帰妙法の意思に従い、一門のなかから特に行力堅固、弘通の志念力の厚い者を選び、神文起請のうえ相伝することとなった。その選に選ばれたのが当院開基となる経王院日祥上人で、新たに堂宇を建立して荒行堂としたのが遠壽院の前身円立坊である。それは今から約四百年前の天正十九年(1592)一月二十日のことであり荒行堂の始まりである。


 そして文禄二年(1593)、法華経寺第十二代仏心院日珖(にちこう)上人の代に、京都の頂妙寺、本法寺、堺の妙国寺の三寺による三山輪番制が創始されたとき、法華経寺貫首は三ヵ年を輪番の一期としたため、修法相承に専心できないことを憂い伝師職を置くこととした。すなわち、修法道に堪能な者を挙げて伝師職とし、相伝のことをつかさしめたのである。


 この初代修法伝師となったのが当院三代の遠壽院日久上人で、正中山正嫡の大秘法をあまねく相承し、一千日の行法を成満(じょうまん)した。

 日久上人は行力堅固、修法練達の聞こえ高く、今日の修法伝書のほとんどすべてが日久上人のときに結集大成されたもので、祈祷修法中興の祖と仰がれている


 当院四代の日行上人は、日久上人の徳行を慕い、その院号を取って寺号を遠壽院と改称した。これが現在に至る遠壽院という寺号の由来である。


 以来、その代々師資相承の秘法は、先聖先哲の苦修練行によって、さらに巧緻を加え、その顕力は一般民衆をはじめ、天皇家や徳川家にまで広く尊び仰ぎ慕われてきた。

 遠壽院は、祈祷の根本道場として、代々当院住職が修法伝師として口訣相承の任を負い、現在、日蓮聖人直授伝来、唯一無二の祈祷相伝書を格護している加行道場である。

入口の円柱
【入口の円柱】

江戸期文政年間に建てられたもので「當山根本御祈祷系授的傳加行所遠壽院」と刻まれている。

正中山開基の日常上人御自刻の恵比寿像
【正中山開基の日常上人
御自刻の恵比寿像

恵比寿と対にして祭られることが多い大黒天の像(同じく日常上人作)は、当院と同じ市川市の弘法寺(ぐほうじ)にある。






【境内にある太田家の墓碑】

太田乗明以来、中山ゆかりの太田家は、室町時代には江戸城を築いたことで有名な武将、太田道灌(1432~86)を輩出している。右の太田家祈祷祈願札は、江戸時代に掛川藩(現在の静岡県掛川市)藩主となった代々の当主が太田家の繁栄を祈念したもの。また中央の扁額は、道灌の末流16代の掛川藩主、太田資美の書によるもの

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扁額「遠壽院」
扁額「遠壽院」

南部日實上人による書。日蓮聖人は、鎌倉におけるさまざまな法難の下での布教活動の後、鎌倉幕府に見限りをつけ、有力な檀越であった南部六郎実長の領地である甲斐国波木井(はぎり)郷身延(現在の山梨県南巨摩郡身延町)に着き、それより九年間にわたって身延山にこもった。ここに創建された寺が、後の身延山久遠寺である。南部家は、江戸期の南部藩にもつながる家系であるが、日實上人は、南部実長から数えて第三十六代の末流に当たり、出家し当院荒行堂で加行中にこれを揮毫した。

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祈祷札

江戸幕府14代将軍徳川家茂の代、万延2年(1861)に将軍家より奉納された「征夷大将軍武運長久」の祈祷札。家茂は、公武合体の一策として孝明天皇の妹和宮が降嫁した将軍として有名で、「天拝尊神」とともに幕末の政情騒然とした余韻を当院に残している。

子安千代稲荷像
子安千代稲荷像

江戸城内の大奥に祭られ、最後の老女・瀧山が給仕役を務めたもので、維新後当院に祭られた。江戸城を千代田城ともいったことからこの名がつけられている。遠壽院では、代々、将軍家の祈祷を行っており、その祈祷が大奥で行われたことのゆかりを示す。

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鬼子母尊神像
鬼子母尊神像

鬼子母神は、法華経の行者を守護する神とされ、宗祖日蓮聖人も行者擁護の守護神として尊崇した。その後、江戸時代になり日蓮宗の祈祷が盛んになると、鬼子母神は祈祷の本尊として崇拝されるようになった。当院表行堂に安置されている鬼子母尊神像は、江戸時代末期に京都へ出開帳の折、孝明天皇が内裏において御親拝になられた「天拝尊神」である。

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ざくろ
ざくろの樹

瑞門前の樹齢約300年のざくろの木。ざくろは、鬼子母神と密接な関係をもつ。

絹本 許状

村雲門跡日尊法尼御染筆による「天拝尊神」の絹本と「天拝尊神」号を与える旨の許状および皇室の永代安泰を願う祈祷依頼状。
天拝尊神とは天皇が拝まれた御神体のことです。

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