遠寿院

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遠寿院所蔵の起請文

5.遠壽院起請文を読む

以上を参考としてご理解いただいた上で、少し具体例で遠壽院起請文を読んでいってみたいと思います。起請文の書法は残っているものだけで見ても何回か変わっているのですが、ここではもっとも代表的な五つの例を示して説明を加えてみます。

このうち史料A・B・Cが江戸時代のもの、史料D・Eが明治以降のもの、となります。現在のものは拝見しておりませんので、このD・Eとは少し違っているのかもしれませんが、いちおうこれを現在のものの基本形と考えておきます。お聞きすると、Eの巻物を腹籠起請、Dは冊子ですが、これを伝師宛起請文とよんでおられるようです。現在では、どちらも行が終わる成満の頃にお書きになるものだとうかがっています。この二つの起請文に関する知識が、他の起請文を考える上での大きなてがかりとなります。

そこで、A・B・Cの江戸時代のものを見てみます。



資料A

資料B

資料C


Aは冊子で、残されているものでは文化十三年(一八一六)のものが初見ですが、慶応二年(一八六六)、つまり江戸時代の末までのものがほぼ完全に残っています。またBも冊子で、やはり残されているものでは文化十三年のものが初見で、万延元年(一八六〇)までのものが残っています。A・Bともほぼ楷書体で書かれていますが、まずAの最初のものを読んでみますと、

「起請文のこと
一、 ご院内のご制規条々のこと、生涯色心あい守り、違背つかまつるまじく候。後日にいたりて、あい背くにおいては、
ご本尊鬼形鬼子母神の御罰を蒙りたてまつるべきものなり。よって起請文くだんのごとし。
文化拾三丙子閏八月十日」
(下略。なお、「起請文」は、実際には「起證文」と字を誤用しています。)

このように、高谷浄妙寺の日昭という方が院内制規等を生涯守ることを誓い、もし違えたら鬼形鬼子母尊神の罰を蒙ることを約束したものです。この起請文の最後に、遠壽院日量聖人に宛てて出していることが明記されていることにご注意ください。

同じ日付で、この日昭という方がもう一通の起請文を書いています。それがBの冊子のもので、こちらは「謹啓」から始まっています。謹啓の啓は敬の字を書いていますが、同じです。「謹啓」からはじめて、たくさんの仏、神々を勧請しております。いわゆる神おろしのそうした神仏名が続いておりますが、九行目から読んでみましょう。

「・・・・・・わが祖日蓮大士、常修院日常大上人等に白(もう)して言わく、野釈」、野釈とは私、ということですね、ですから、以上の神仏・祖師に私は以下のことを申し上げます、ということになりましょう。「今般当山において、当家の大法・修験の要術を稟承しおわんぬ」とあります。稟承は、一般には「ひんしょう」と読むのですが、こちらでは「ぼんしょう」と読んでおられるようです。いずれにせよ受ける、授かる、という意味です。そして授かった上は、「しかる後、生涯色心堅固に、如法に護法したてまつる」として、それに続く四ヶ条を約束しています。すなわち、第一条では稟承したことを他人には伝えない、第二条では、当山の門流を離れるときには、相伝した巻物等は残らずお返しします、第三条では、古制・新制をかたく守ること、そして第四条で、相伝の師匠、いわゆる伝師を現世・来世とも決して誹謗せず、敬うこと、以上の四ヶ条に背いたときは、前半で勧請した神仏の罰を蒙って、現在においては無量の重苦を受け、来世には未来永劫地獄に堕ちる、という起請をしています。

BはAとはだいぶん文面が違いますが、同じ日付です。現在は起請文を行の成満の日に書いておられるそうですが、当時はA・Bともに次のC の史料によりますと、行に入る日に書いているようです。同じ日付でなぜ二通の起請文を書いたのか、ということですが、結論としては、一通は伝師に宛てたもの、もう一通は祈祷本尊の鬼子母神はじめ多くの神仏・祖師に宛てたものということになりましょう。それは宛名を見ればわかります。Aには伝師宛ての宛名がありますから、これが当然伝師宛起請文です。もう一通には宛名がありませんが、戦国時代より前の起請文や神仏に捧げる文書には宛名がないのがむしろ当たり前ですから、それからすればこのBは神仏宛てということになります。


資料D ★史料をクリックすると拡大します。


資料E ★史料をクリックすると拡大します。

すると、Aは現在のDの伝師宛起請文の先駆形態であり、BはEの腹籠起請の先駆形態、ということになるかもしれません。ただ、Bが巻物でなく冊子なのが気になります。一枚ずつばらばらに書いてあとでまとめたのかもしれませんが、どうでしょうか。さっきものべたようにあとで見るC の文書にある行僧の入行の日付からすると、AもBも入行の日に書いていることが確実ですから、それからするとこのふたつは行にはいるにあたっての約束を記した誓約書という意味あいが強そうに思われます。

とすれば、Bも神仏宛ての起請文であるということからすれば、現在の腹籠起請の前段階の起請文のひとつであるかもしれませんが、むしろC こそが腹籠起請の直接の先駆形態であるといえそうに思われます。C は一見すると門弟帳、門人帳のようにも思われますが、これは冒頭に天正十九年(一五九一)の上人の置文と、寛文六年(一六六六)の日逮上人の置文追加、そして遠壽院開山の日祥上人の置文などの制規がそれぞれ写されていて、これに続けて行僧が連署していく形になっています。つまりこれらの祈祷にかかわる制規(これが、Bの第三条にある古制のことでしょう。一方、新制は、あとで述べますが、私は文化十三年八月の「当院御祈祷一派制規」のことだと考えています)に違背しないことを、行僧たちが次々に署名しているわけです。これこそ、祈祷本尊鬼子母神のおなかに納めて、永久に誓いをたてる腹籠起請にふさわしいといえましょう。

C の形のものは、いま残るものでは「正中山祈祷相承法式条目」の外題を持ち、元禄五年(一六九二)の日久上人の署判からはじまる巻物と、「誓約書」の外題を持ち、享和四年(一八〇四)からはじまるものなどの四巻があり、あわせると元禄五年から慶応元年(一八六五)までの行僧の連署を見ることができます。

元禄の巻物は、連署の日付が元禄五年からはじまるのに、冒頭の制規の写しが享保四年(一七一九)成立とありますので、この間の二十数年間の分は、仕立て直されたか、あるいは行僧がさかのぼって自分の加行の年月日を書き加えたものであるのかもしれません。紙継目の形状など、もう一度原本にあたらせていただいて慎重に検討させていただく必要があると考えています。

C の形のもののうち、記事の豊富な享和以後のものを図に示しておりますが、このように、これは入行と出行の日が両方書いてあります。ということは、この起請文に連署するのは、出行の日にならないとできないことになるわけです。ですから、A・B・C の起請文に残された日付から起請文を書く作法を復元してみますと、まず行僧は入行の日に伝師と祖師・神仏とに対して院内の制規を守る旨誓約し(A・B)、出行・成満の日に祈祷本尊の鬼子母神に対して違背しない旨の起請文に連署の署判をする(C)ということになっていたと言えるようです。

それを裏付けるように、Cで規制されている内容は、単なる修行中のきまりではありません。今後行僧が祈祷師としてやってよいこと、悪いことを規定しております。たとえば、上人の置文では、祈祷にあたっては相伝の旨を守り、「臨時・私」の新義を交えてはいけないとか、「便狐」(狐を使う祈祷でしょうか)を執行してはいけないとか、「侘立」(たくだて、つきものの祈祷)や「子消」(こけし、無理に流産させることでしょうか)はむやみにやってはいけない、などと具体的に決められていますし、日祥上人の置文では門弟が年頭・暑寒のあいさつに来るべきことまで規定しています。なんでここまで、という感じもしますが、出行の後、中山の祈祷の決まりを離れて異端の祈祷を檀家・信者の依頼によってやる、するとまたそれがかえって評判になるなどということもあったのでしょうが、こうしたことのないよう、門流の祈祷師をしっかりと把握する必要があったための規定というべきでしょう。

さて、以上にように見てみると、AとBとが現在の伝師宛起請文につながるもので、Cが腹籠起請文につながるもの、と考えてよいことになりましょう。これが私のこれまで考えてきましたところの、いちおうの結論です。


6.起請文から見る遠壽院祈祷の五つの画期

時間もほとんどなくなってしまいました。そこで、最後にこうした起請文を使って、遠壽院・荒行堂の歴史あるいは遠壽院の起請文の歴史を考えるにはどうしたらよいだろうか、といったことを少し述べさせていただきたいと思います。

そのひとつの方法は、こうした起請文の細かな文言の違いに注目して、それがどういう時期的な変化なのかを見ていくということだと思います。

一例をあげましょう。Eの史料の二条目をご覧ください。「古制・新制及び政府の法令を遵守するは勿論、病者に対し医薬を禁じもうすまじく候」とあります。この前後の条は、以前のものとあまり変化がないのです。この条だけ、従来は「古制・新制を守り」とだけあったのが、政府の法令を遵守せよ、病人が医薬を飲むのを禁じるな、と変わっています。祈祷と医薬との関係というのは、やはり近代のあつれきを感じさせますが、政府の法令にも注意してみたいですね。この文言が初めて出てきますのは、どうも明治三十年なのです。この頃というのは、明治二十七年が日清戦争の起きた年なのです。

このとき、中山は久保田日亀上人の時代なのですが、この日亀上人という方は、内部的には中山の山門を作られたり、山規を改正されたりして、いわば近代の中山を形作られた方、廃仏棄釈以後の混乱に終止符を打たれた方として記憶されてよいわけですが、同時にこの日清戦争のときには、外部的には、広島の大本営に祈祷にいくなど、「報国尽忠」の積極的な対応をした方でもあるのです。そうした方の時代に、従来の「古制・新制を守り」に加えて政府の法令を守れという文言が出てきた、ということは、やはり、遠壽院の祈祷に時局が反映してきた、という意味があるといえましょう。小さな文言にこだわっても、こうした時代は見えてくるということをご理解いただけましょうか。

連署のものは勿論、伝師の命ずるものに署判を加えるのですから、時代の変化をあらわすのは当然ですが、一人ひとりのものも、実は必ず手本があるわけです。だから字句の変化は、手本がかわることを意味するわけで、これも字句・文言に注意する必要があります。そうしたものに注意してこれらの起請文を見ていきますと、たしかにいくつかの画期があることに気が付きます。今日はまだ仮説的にしか申せませんが、それをお示しして、このお話の結びにさせていただきます。

まずC の冒頭の上人の置文の成立が天正十九年であることも、この前年に小田原の後北条氏が滅んで徳川家康が江戸に入部したという意味で、関東地方にとっても中山にとっても画期だったことを示していますが、それは遠壽院の歴史にとっては前史ですから、ここでは詳しくは触れません。享保年間の日久上人の時代が、当然のことながら遠壽院のいわば出発です。彼が祈祷中興の祖とよばれるのは残された起請文からもたやすく証明されるといえましょう。

そして次の画期を文化十三年(一八一六)と指摘しておきます。この年は、勿論A・Bの起請文がいずれも初見を見る年ですが、それだけでなく、さきほどちょっと述べた文化十三年八月の「当院御祈祷一派制規」、つまり新制が出来た年でもあります。こうした制規を作るということは、いままでのきまりが乱されていることを示します。いわば古文書読みの常道ですが、乱れていなければなにも新しい制規を作ることはない、乱れているからこそ、新制が必要なわけでしょう。で、かなり相伝が乱れていたわけですが、この文化十三年は世代からすると第十四世の日量上人の代ですが、同時に第十世日浄上人もまだ在世中のときですから、多分両上人が相談して遠壽院流の祈祷の乱れの修復をはかってこうした制規を作り、さらにいまに残る入行の起請文の雛型を作られた年だと考えたいと思います。

そして次の画期は天保八年(一八三七)頃です。これ以後、目立つところでは、これまでの「御本尊鬼形鬼子母尊神云々」という文言が「三宝諸天・鬼子母尊神云々」と変わります。このことは、間違いなく起請文の手本が変わったことを意味します。その理由はわかりませんが、天保八年という年が内には日浄上人の亡くなった年で、また十一代将軍徳川家斉の譲位の年でもあることに注意したいと思います。家斉は一橋家の出で、日蓮宗に帰依厚く、逆にこのことがいろいろな方面にうらみを買い、家斉の死後、中山智泉院が大奥の勢力争いがらみでつぶされる伏線にもなるわけです。こうした波乱を予感させるいわば二重の代替りの年がこの天保八年なのですから、これもやはり文言の変化だけではなくて、ひとつの画期と押さえておくべき年ではないでしょうか。

次の画期は勿論明治維新です。廃仏棄釈の風潮から、祈祷も一時断絶をよぎなくされる、いわば遠壽院の祈祷の最大の危機だった時期です。しかし、遠壽院の祈祷は明治九年に再興され、そしてさきほど述べたように、明治三十年頃に、完全に廃仏棄釈以後の混乱に終止符を打つ、このように考えてよいのではないかと思います。ほぼこのようなことが、起請文の文言や形態の違いの分析から考えられるわけです。


7.おわりに

以上、長くなりましたが遠壽院の起請文を見まして、考えてきたことのおおよそを報告させていただきました。こうした分析をもとに、ただいま編集中の『遠壽院文書』を作っていきたいと思いますので、どうかよろしくお願いいたします。


<付記>
-前文省略- なお、この報告がひとつのきっかけとなって、遠壽院では新たに牛玉宝印を考案されたと聞いている。(史料8)。法華一乗の理念を一羽の烏とひとつの宝珠であらわしたというこの牛玉宝印は、まさに全国で最新の牛玉宝印であるといっても間違いではないと思う。

(ちぢわ・いたる 東京大学史料編纂所)

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