遠寿院

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遠寿院所蔵の起請文

論文「遠寿院所蔵の起請文」
1992年[総合修法研究]創刊号(遠寿院総合修法研究所)
千々和 到(東京大学史料編纂所[論文発表時]、現国學院大学)

1.はじめに

-挨拶部分省略-

 戸田さんと初めておあいしたとき、隣同士でいろいろ話しているうちに、「あなたは何を研究しているのですか?」と聞かれました。私が、「ぼくは起請文というのを研究しているんです」と答えますと、普通でしたら起請文ってなんですが、といわれるものですが、なんと戸田さんは、「うちの寺ではいまでも起請文を書いていますよ」とおっしゃるのです。

 ご縁というものなのでしょうね。そこで思い切って、「その起請文を見せていただけないでしょうか」とお願いしてみました。すると、「遠壽院の起請文というのは、行をする僧が現代まで書きついできているもので、信仰の世界に属するものだから、もちろんむやみにお見せするわけにはいきません。ただ、江戸時代に書かれたものが寺に伝わっておりますから、それは研究のためにお出しできるかもしれません」と、そういうお話でございました。

 このことがきっかけになりまして、一九八八年の秋、私の職場である東大史料編纂所―ここは、日本全国の歴史の資料を収集している研究所ですーの正式な調査として、同僚の宮崎勝美さんと一緒に、こちらのご所蔵の江戸時代の文書を中心に調べさせていただきました。

写しました写真が全部で約二八〇〇コマと、たいへん膨大な量の資料でございました。その内容は、といいますと、起請文だけに限らず、遠壽院・荒行堂のさまざまな決まり、それから中山法華経寺の出開帳の記録、それから信者の大名などの人々の祈祷関係の資料、そういった未公開の資料をたくさん拝見させていただいたわけです。史料編纂所にとっても、また私どもにとっても、ありがたいことでございました。

 それ以来、この二八〇〇コマの写真と、時間を見付けては格闘しております。私は主として起請文を中心に担当し、もうひとり、宮崎さんは江戸時代のこのお寺の歴史を中心に調べて下さっております。こうしたご縁で調べさせていただいていますことのうち、まだ中間報告ということになりますが、気付いたことなどを、今日は少しお話させていただきたいと考えております。


2.起請文とは

ではまず起請文とは何か、ということからお話にはいらせていただきます。起請文とは何かといいますと、ひとことで言えば約束の文書である、誓いの文書である、ということになります。誓いということでしたら、私たちのような俗人でもする場合があります。たとえば結婚式、新郎と新婦とがそれぞれ相手を裏切らないと神前で誓いのことばを読み上げたりしますね。ではこういう誓いの仕方と、起請文の誓いの仕方とは同じか、ということなのですが、ちょっと違うわけです。といいますのは、起請文には、もしウソをついたら、神仏の罰をうける、ということ、これを約束することがつきものだ、ということなのです。ここが違っています。


結婚式の誓いのことばには、奥さんを裏切って浮気したら神仏の罰を受けるなんて書いてないでしょう。せいぜい、罰に家から追い出されるということでしょうか。だからこれは、起請文とは違う。

 それから子供同士ですと、「指きりげんまん」なんていう誓いの仕草があります。実はこれはウソをついたら罰をうけるという点で起請文に近い構造をもっています。こうしたものを「誓言」と言うのですが、「指きりげんまん、ウソついたら針千本のます」などと言い合います。ところで、「指きりげんまん」を辞書で見ますと、「げんまん」とは拳骨一万個だと書いてあります。これはちょっと信じられません。ウソついたらその罰は針千本なのであって、ウソつく前に拳骨一万個では、とてもたまらないわけです。では「げんまん」とは何か。これがどうもわからないのです。ひとつの解釈としては、偈文ではないか、ということです偈文、つまり呪文を唱えて誓った以上、ウソついたら針千本、というわけです。以前私はこれでいいと考えたのですが、「げもん」が「げんまん」になるだろうか、という疑問が残ります。

もうひとつの解釈は、「げんまん」は「華鬘」ではないだろうか、ということなのです。これは実は先輩の笠松宏至氏に示唆をいただいたのですが、華鬘だけですと荘厳の飾りのことですからわからないのですが、辞書をひきますと、華鬘の項には「華鬘結び」のこと、という説明もあります。華鬘結び(史料1)とは、同心結びともいう、とありますから、要するに、ほどけない結び方ということになりましょうか。

これならたしかに「指きり」のときの指の形とも似ていますし、納得がいきます。私は、今の所、これが一番いいかなと考えております。ただ、それでは針千本飲ませるのは誰か、となると、誓約した相手が飲ませるのであればやはり起請文とは違います。誓約に立ち合っている神が飲ませるのだ、と解釈すれば、まさに起請文と同じ、ということになるのですが、これはいかがでしょうか。

では、典型的な起請文をひとつ紹介してみましょう。史料2をご覧ください。
これは鹿児島の島津義久と佐賀の龍造寺政家とが講和した際の起請文で、島津の側が龍造寺の側の求めに応じて与えた起請文です。ただ、この文書は島津家文書の一通として残されていますから、龍造寺に与えた正文ではなく、その写し、控えであることがわかります。まず一つ、とありまして、龍造寺政家が当家に対して「無ニ深重たるべきの由、神文をもって承る上は」島津義久としても決して粗末にはしない、というようなことを誓っています。あと二条ほど省略してあるのですが、これがいわば和平条件、約束内容の列挙で、これを起請文の前書とよびます。「神文をもって承る上は」とありますから、龍造寺側からさきに起請文が出されて、これはお返しの起請文だということがわかりますね。


その次の「右条々相違においては」、つまり右のことをウソをついたら、というところから後が、神文とか罰文とか呼ばれていまして、日本国中の神仏やとりわけ薩摩の鎮守・島津の氏神が勧請されて、もしウソをついたら、これらの神仏のバチがあたる、と約束しているわけです。これが、戦国時代ころの典型的な起請文で、繰り返しますが、ただ約束するだけではなくて、その約束に反したら神仏の罰をうけることを約束する、いわば神仏の立合で約束する、という構造になっています。

こうした起請文は、これを書くにあたっていろいろな決まりがあるようです。といっても、そのような決まりがそのまま文章で残っているわけではないので、様々な状況証拠から考えるわけですが、たとえば年寄や子供は書けないようですね。年とった僧が、起請文を書かされるのは恥だ、といっている史料があります。また子供は、いわば証拠能力がないせいでしょうか。これも書かないようです。そして身分の高いひとも書くことを恥じるようです。鎌倉時代の終わりに、朝廷と鎌倉幕府とがしばしば争います。あるとき、天皇側の陰謀が露見してしまいまして、後醍醐天皇が私はこの陰謀に加担していない、と起請文を書いたようです。これが幕府に届けられるのですが、幕府では結局これを開封しないことにします。天皇の起請文など前例がないからだ、ということのようです。この反対に、身分の低いひと、差別されていた人々も、どうも起請文を書けなかったように思われます。

また、「服(ぶく)」といって、近親者に死人がでたときも、やはり起請文を書けませんでした。それから書きたくないひとに無理やり書かせてはいけない。これは圧状といって、理不尽の起請文、無効な起請文とされたようです。

このほかにもいろいろとしてはいけないこと、しなければいけないことがあるようですが、起請文を書くにあたってこうした規制があるというのは、先ほど言いましたように、起請文を書くときに神々を勧請する、神仏の立合をうける、ということがあったためだと思います。つまり、起請文を書く場、というのは、神事の場だったというわけですね。だから、起請文を書くにあたっていろいろな規制があったのだろうと思います。

そして、起請文を書きますと、違えたら罰を受けるわけです。で、信じてもいない神仏にそれを誓ってもしかたがないわけです。だから、書かせる側としても相手の信じている神仏は何だろうと考えて、それに合わせて起請文を書かせるわけです。普通はそれが荘園の鎮守や氏神ということになるのですが、一向宗(浄土真宗)の信徒が相手ですと、阿弥陀如来や親鸞聖人の名前に懸けて誓わせる。またキリシタン宗門の取締りに関する起請文ですともっと徹底していて、幕府が転びキリシタンに、キリシタンの信仰対象であるゼウス、マリアに懸けて誓わせる、このようなことをやります。もしうそをついたら、「いんへるんの」、つまり地獄に堕ちる、ということを、禁制の神の名に懸けて誓わせるわけです。

さて、ではこの遠壽院のご宗旨の日蓮宗の信者の場合はどうするか。一例をお示ししましょう。中尾尭先生の編纂された『中山法華経寺史料』から一点紹介してみます(史料3)。

ようするに史料3では、法華経の護法善神や開祖・開山の上人の罰を受けるというわけです。これがひとつの典型と申せましょう。あとで見る遠壽院さんの起請文というのも、当然この流れを受けているわけです。


3.起請文と牛玉宝印

ところで、起請文を書く際の道具立てのひとつに、牛玉宝印というものがあります。これについてもついでに少し見ておきたいと思います。

高野山文書の中に、史料4のような文書があります。

史料4は、高野山の膝元の荘園のひとつに、官省符荘というのがあるのですが、その荘園の百姓たちが書いた起請文なのです。まず端裏書に注目してください。

「百姓等呑むの起請文案」とあります。案というのは、文案・草案という意味もありますが、ここでは文書の正文の写しという意味ですが、問題は、「呑む」です。この意味は、次の端書でもっとはっきりします。

「ただし、正文においては、護法裏にこれを書き、神通寺御宝前において、霊水をもってこれを呑む」とあるわけです。正文、つまり文書の原本はこれを霊水、神水に浮かべて呑んじゃった、だから無くなってしまって、これはその写しだよ、写しだけれども、普通の写しではなくて、原本は呑んじゃったのだから、これはその原本にかわる大切な写しだよ、というわけです。「一味神水」ということばをご存じかもしれませんが、百姓たちが一揆するときに、村の鎮守で団結を誓って起請文を書いて、これを焼いて灰にして神水に浮かべてのむという作法があります。これも同じようにして、神通寺という荘園の中心の堂で神水に浮かべて呑んでしまったのだということになります。

そしてその正文は護法の裏に書いてあったというのです。結論を言えば、この護法とは、音の似ている牛玉宝印(ごおうほういん)のことだと思います。牛玉宝印というのは、中世から見られる護符の一種なのですが、「○○寺牛玉宝印」などという字を書いたり版で刷ったりして、それに朱の宝印を捺したものです。熊野三山、とりわけ那智滝のものが有名ですが、それだけでなく全国の寺社から出されておりまして、また今でもたとえば東大寺の二月堂では修二会(お水取り)のときに牛玉宝印を出しておりまして、信者に配布しております。普通は田んぼの苗代の水口に立てて豊作を祈ったり、家の戸にはって家内安全を祈ったりするものですが、中世や近世には、起請文を書くときに、この牛玉宝印を料紙に使うというのが当たり前だったので、この起請文でもどこか、多分高野山の牛玉宝印をいただいて、これに書いたのではないでしょうか。

ちょっと脇道にそれますが、日蓮宗の寺でも昔は牛玉宝印を出していたようです。今はどうでしょうか。実例はあまり知りませんが、中村直勝先生の『起請の心』という本に「本隆寺牛玉宝印」というものが載っています。中村先生のコレクションは、大部分は大和文華館に双柏文庫という名ではいっているのですが、どうもこの本隆寺牛玉宝印ははいらなかったようです。ですから、今それがどこにあるのかはよく知りませんが、その本の写真を複写しておきました(史料5)。真中に本隆寺、右に牛玉、左に宝印という字がかかれております。中村先生は、京都の本隆寺の牛玉宝印だとしておられます。

それから、戦国時代に天文法華の乱というのが起きましたが、そのときの史料にちょっと面白いものがあります。天文法華の乱というのは、中世後期には京都の町衆には日蓮宗の信者がたいへん多かったのですが、その信者を中心にして、戦乱や一揆の中で京都の町を自衛するために自治的に支配したことがありました。それが五年ほど続くのですが、比叡山や武士の武力による攻撃を受けて、この自治的な支配が壊滅させられてしまうという事件がありました。天文年間の事件だったものですから、これを天文法華の乱とよびます。

この事件の直後に室町幕府が一つの法律を出します。それは史料6の写真のようなものです。


史料6の一条めは、日蓮宗寺院は京都にあってはならない、これは負けたのですから、こうなります。そして二条めなのですが、これが面白いと思います。日蓮宗の牛玉宝印を貼ってある家は破却すると。つまり、この事件までは、京都の日蓮宗信者の町衆たちは自分の家に日蓮宗の牛玉宝印をおまもりとして貼っていた、ということになるわけですね。その中に本隆寺の牛玉宝印があったかどうかはわかりませんが、少なくとも、京都の日蓮宗寺院が中世に牛玉宝印を発行していたことは、この史料からはっきりしているというべきでしょう。


4.腹籠起請文

さて、起請文とはどういうものか、という話が長くなりましたが、そろそろ遠壽院さんの起請文についてのお話にはいりたいと思います。


遠壽院の起請文も、当然こうした起請文の流れのなかで考えなければいけませんが、非常に珍しくて、あまり例のない作法もあります。わたしがいちばん関心を持ちましたのは、やはり何といっても腹籠起請です。戸田善育上人のお話しですと、行僧の書いた起請文を本尊の鬼子母神のおなかの中に籠めるのだ、ということでした。しかも鬼子母神の像のおなかに引き出しが作ってあって、この中に納めるのだというので、私の乏しい記憶では、ほとんど聞いたことがございません。


そこで、なぜこういう起請文の納めかたをするのか、ということを考えたいと思います。

具体的な文書の仏像の体の中への籠め方、納め方と関連してすぐ思いつくのは、よくある胎内文書というものです。これは、はじめて造立したり、修理をしたりしたときにその趣旨を書いた願文を胎内の空洞に納めるもので、最近も東大寺の仁王像から興味深い胎内文書が出てきて報道されたりいたしました。最初に腹籠起請のお話をうかがったときは、わたしはこの胎内文書のことだと思ったのです。胎内文書の中に起請文が見つかったこともございますから、そういうものだろうと考えたわけです。ところが詳しくうかがいますと、そうではなくて鬼子母神の像のおなかに引き出しが作ってあって、この中に納めるのだという。これはとても珍しい例だと思うのです。考えてみればたいへん合理的なわけで、遠壽院の場合には、毎年行にはいるお坊さんがいるわけですから、胎内文書のように、いれっぱなし、一回いれるだけ、というわけにはいかなくて、将来の出し入れがしやすいようにこうしなければならなかったわけですね。でも胎内文書もこの鬼子母神の起請文も、要するに仏の体に納めるのですから、気持ちとしては同じわけで、胎内文書が腹籠起請の作法の生み出される前提であることは間違いないといえましょう。

では起請文を仏の胎内に納めるというのはどういう意味なのでしょうか。それはおそらく仏の体に納めるのですから、気持ちとしては自分の約束を仏に届け、籠めるのだということで、籠めてしまった以上、もう絶対に裏切れないことになると思います。そういう決意のあらわれと受け取るべきでしょう。意識としてこのやりかたの前提になるものは、次にご説明するような、起請文を仏前に籠めるということではないでしょうか。

史料7をご覧ください。これは、京都に東寺というお寺がありますが、ここに伝わった記録です。僧がある疑いを受けて、その疑いをはらすために参籠することになります。いわゆる参籠起請という中世の犯罪の証明方法のひとつなのですが、この時、参籠の開始にあたって彼は起請文を二通書いているわけです。そして一通は仏前の籠め、一通は焼いて灰にして飲ませられます。起請文を焼くというのは、勿論さきほど述べた一味神水の儀式につながるわけで、私は起請文に限らず文書を焼くというのは、ひとの意志を他界、神仏に届けようとする行為だと考えています。ここでは詳しく述べるゆとりがございませんから、是非ご関心のある方は拙稿「『誓約の場』の再発見」(『日本歴史四二二』をお読みください。

そして仏前に籠める、という行為も、それと対立するものではなくて、やはり意志を仏に届けるもうひとつの方法だと思うのです。誓約したひとの意志が神仏に届いたということをこの参籠に立ち合う人々が眼前に確認しているからこそ、参籠中に「失」という神仏の意志のあらわれが生じるかどうかを判定できるわけでしょう。その意味で、起請文を焼く、起請文を仏前に籠める、ということは、この参籠に立ち合う人々に起請文の内容が神仏に届いていることをビジュアルな形で確認させる重要な作法であると申せましょう。

こうして、自分の意志を仏にとどけるための「仏前に籠める」作法と胎内文書の納入というふたつの前提を踏まえて、この腹籠という作法が生み出されたものではないかと私は考えております。

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