遠寿院

〒272-0813
千葉県市川市中山2丁目3-2
TEL:047-334-2386 FAX:047-332-8157

HOME > 研究所 > 論文 > 遠妙院日栄「西海弘通記録」について―鬼子母尊神「天拝」と京都出開帳―Part1

遠妙院日栄「西海弘通記録」について

論文 遠妙院日栄「西海弘通記録」について
―鬼子母尊神「天拝」と京都出開帳―
1992年[総合修法研究]創刊号(遠寿院総合修法研究所)
宮崎 勝美教授(東京大学史料編纂所[論文発表時は助教授])


 遠壽院には現在、江戸時代以降の古文書二百点近くが伝えられている。その中で最もまとまっているのは、毎年の荒行の際に行僧たちが書き認めた起請文であり、これについては本誌に掲載されている千々和到氏の御論考に詳しいが、その他にも、江戸城大奥・大名江戸屋敷における祈祷や江戸出開帳に関する記録をはじめとして、借用証文、質地・小作証文の類にいたるまで、実に多様な内容の史料が含まれている。それらの史料の中に、幕末・維新期に書かれた日記形式のものが数点あり、当該期の遠壽院の活動の様子を比較的詳しく知ることができる。ここではそのうちの一点、遠妙院日栄なる人物が残した「西海弘通記録」と題する史料を紹介することにしたい。

 「西海弘通記録」(以下「記録」と略す)は半紙二つ折りの竪帳形式で、丁数は表紙を含めて四〇丁を数える。年代は文久元年(一八六一)の二月から十一月まで、内容は、「天拝尊神」として知られる遠壽院行堂鬼子母尊神像の、京都・九州への出開帳とその途次に行われた禁裏御所への参殿―孝明天皇の「天拝」の経過について記したものである。記主の遠妙院日栄は、遠壽院二十四世観量院日照(以下、文中敬称を略す)の附弟で、遠壽院所蔵「両院行僧名簿」(文政七~明治元年)には、安政五年(一八五八)十一月十七日入行の際の記事が見え、それによれば、越後三島郡村田の産でその当時三十歳、したがって文久元年には二十三歳になっていた筈である(ただし遠妙院本人は、「記録」の中で自らの年齢を三十歳とも三十五歳とも記している)。


ページの先頭へ

ここでまず、「記録」に記された出開帳の全経過を、まとめて書き出してみることにしよう。

二月 一日
 遠妙院日栄ら、鬼子母尊神を擁して江戸を出立。
一三日
 京都到着。
十五日
 鬼子母尊神、村雲御所(瑞龍寺)に参殿。
三月 六日
 尊神、禁裏御所へ参殿。孝明天皇「天拝」。
八日
 尊神、和宮(かずのみや)の御殿へ参殿。
十三~十九日
 京都松原通り大漸寺にて開帳。この後、大坂へ向かう。
四月 四日
 大坂出帆。
十八日
 長崎本蓮寺着。五月十三日まで同寺にて開帳。
五月十六日~
 長崎長照寺にて開帳(晴天七日間)。
二十九日
 長崎出立。筑後久留米妙正寺へ。
六月二日~五日
 妙正寺にて開帳。
九日~
 筑後柳川台照院にて開帳(七日間)。柳川藩家老立花但馬守の夫人らの参詣を受ける。
柳川領内上内村の法華寺を再興し、遠壽院出張所とする。
二十三日
 柳川出立。瀬高に向かう(瀬高にて二日間滞在)。
二十九日
 長門下関本行寺に到着。
七月 一日~五日
 本行寺にて開帳。
九日
 下関出立。
十八日
 大坂到着。
八月十六日~二十五日
 大坂梅ヶ枝善正寺にて開帳。
九月 十一日
 大坂出立。京都に戻る。
十三日~十九日
 京都大漸寺にて「御暇乞ひ」の開帳。
二十三日
 村雲御所へ「御暇乞ひ」に参殿。
十月十八日
 京都出立。
十一月 五日
 帰山。


以上が、全工程九ヶ月の長期間に及ぶ出開帳の経過である。以下では、このうち鬼子母尊神の御所参内・「天拝」の前後を中心にして、紹介することにしたい。


ページの先頭へ

 まず、「記録」の冒頭、序文に当たる部分を掲げることにしよう。(引用史料は、漢字を仮名に直したり、送り仮名を補うなどして、一部書き改めた。以下同じ。)

抑(そもそ)も当院荒行堂と申すは、本化伝道の正統御祈祷根本相承所にして、末法行者擁護の鬼形鬼子母神を安置し奉る。歳々吾山へ入山の輩、三冬の氷に身を清め、読経三昧の床には空観の月を澄まし、不惜身命の行法成就する事、偏(ひとえ)に此の尊像の擁護したまふ処なり。未だ鬼形の尊像、天拝の御法縁なさせられず、天子御拝あらせられ候て、広宣流布の大願成就致すべく心願し奉る。

上京の由来、今般京都より御下向に相成り候趣に付き、御本丸より御迎への御老女(ろうじょ)園浦様并びに御表使(おもてつかい)には村瀬様、御使番(つかいばん)両人はじめとして、正月早々にも御上京の処、追々御延引に相成り候。元来村瀬様は、小石川柳町水野氏、聖尊院様の御娘子にて、御信者に入らせられ候へば、この度心願の儀も幸ひの御上京に付き、御内々ながら御声掛かり願ひたく、尤も昨申年(万延元年)、京・大坂・名古屋三ヶ所内拝の砌、村雲宮様御拝礼の御結縁に有らせらるる砌、兼ねて天拝の心願申し上げ置き候へば、種々御心配下され候由。此の度関東の御手続き、京都は村雲御所の御声掛かり、両様兼ねて、此の段聖尊院様より村瀬様迄御頼み下され候処、あらあら御聞き済みに相成り、正月下旬にて是非御上京の処、追々御延日御触れ出しに相成り、しかしながら延日にても是非御上京の趣承知いたし、拙僧共は支度取り整ひ候に付き、二月朔日江戸表出立、上京の上、日々御待ち申し上げ候へども、御上京の御沙汰これ無く、尤も此の度心願成就の義は、偏に村雲御所様御一老了達院様御始め御骨折にて、速やかに天拝に成らせられ候事、全く明節到来と有り難く存じ奉り候。

遠壽院廿四嗣法 遠妙院
観量院日照附弟授法之門子 日栄誌
辛酉(文久元年)二月廿二日 当酉ノ三十才


ページの先頭へ

 遠妙院らははじめ、和宮を迎えに行く大奥女中らと同行するつもりでいたのであるが、正月早々に予定されていたその出立は延期された。そこで遠妙院らは女中らの出立を待たず、二月一日に江戸を出発した。一行が何人であったのか「記録」には明記されていないものの、こののち九州に渡り、長崎において滞在の許可を願い出た際の文書には、次の六人の名前が書き上げられている。

下総国正中山学頭
一玄院(四十八歳)
同     御祈祷所
遠壽院(三十五歳)
同     役僧
本地院(二十九歳)
家来
田中平八郎(四十二歳)

斎藤徳右衛門(五十歳)
下男
秀吉(三十二歳)

 このうち一玄院の名前は京都滞在中の「記録」の中には見出せず、途中から加わった可能性もあるが、他の五人は江戸出立当初から行動を共にしたものと見ることができる。なお、ここに遠壽院とあるのは、実際には遠妙院日栄のことである。自筆と思われる「記録」の中で自分の名前を書き誤る筈ははいから、長崎滞在中、遠妙院は何らかの理由で遠壽院と名乗っていた可能性もある。師の観量院日照に代わって遠壽院を称したのであろうか。年齢の記載も正しくないが、観量院はこの時三十八歳であるから、師匠の年齢を記したというわけでもない。疑問点と残しておくことにしたい。

 さて、遠妙院ら一行は二月十三日に京都に着き、大黒町の壽延寺という寺院に入った。京都までの経路については記されていないが、帰路は東海道を通っているから、往路も同じであったと仮に考えておくことにしよう。東海道江戸・京都間は百二十六里(五〇〇キロメートル余り)、一行は十三日行程で無事歩き切っている。壽延寺に到着すると、京都在住の町人たちであろうか、「講中」の人々が駆け付けたと「記録」にある。

 翌々十五日早天、村雲御所へ参殿。村雲宮瑞正文院に金百疋(金一分)と浅草海苔十帖を御礼・護符を添えて献じている。遠妙院らは内座敷において馳走を受け、村雲御所の「御一老」了達院に、あらためて「天拝」の件の仲介を願い出ている。下交渉は進めていたものの、正式な許可を受けてから出立したのではなかったのである。了達院の返答は次の通り。

 天拝と申す事は容易ならざる事、なお別して禁裏御所の御警固厳しく、先例これ有り候にも差し支え候処、新しき方の儀はとても覚束(おぼつか)なく存ぜられ候。しかしながら、右一条はかねて当宮様にもご心配致し居り候間、慥(たし)かに御請合は相成らず候えども、明日尊神様、当御所へ御上がりに相成り候様にいたしたく、なお天拝の御時節到来に候らえば、御成就と存じ奉り候趣、申され候。


ページの先頭へ

 先例があればともかく、新規に参殿し、「天拝」を受けるのは容易なことではない。確かに請け合ったと言うことはできないが、まず明日この御所に鬼子母尊神をお移しし、その上で「天拝」の機会を待つことにしよう、というのである。

 十六日、鬼子母尊神は村雲御所に参殿した。「至極内々」に行われたために、諸講の人々にも知らされていない。「尊神の御土産物」として、瑞正文院に金二百疋、了達院に金百疋、その他「御台所中」「御女中」にまで、合わせて九百疋(二両一分)の金があらためて献上されている。

 尊神像は村雲御所に安置されたが、遠妙院らは壽延寺に戻っている。二十日、その壽延寺の隠居、妙淳院が退寺することになったので、松原通りの大漸寺に移り、村雲御所からの吉報を待った。

 二十六日昼頃、村雲御所から書状が到来した。遠妙院が本地院・妙淳院とともに急ぎ参殿すると、瑞正文院とその嗣子、万佐宮への拝謁を許された。瑞正文院からは「未だ慥(たし)かなる儀は相分からず候らえども、多分天拝に相成り候様子に付き、極く内々相心得、尤(もっと)も外々(ほかほか)へ一切披露これ無き様致すべき旨」、直々に仰せ付けられた。次いで別間にて御馳走頂戴、禁裏御所の「御局」(おつぼね)に観実院という村雲御所の弟子がいること、その人物を通じて「天拝」一件を願い出ることができそうだとの話を聞いた。

 「天拝」が本決まりになる日は、意外に近かった。三月一日、書状で呼び出された遠妙院と本地院は村雲御所に参殿、「弥々(いよいよ)天拝の一条、慥(たし)かに取り極まり候間、禁裏御所へ献物(けんもつ)の用意、申し渡され」たのである。次いで同三日、「天拝」の日取りは三月六日と決定した。

 五日、禁裏御所への土産物を村雲御所へ持参。「禁中様」つまり孝明天皇には「御花生壱箱、但し三百疋の品、御菓子壱箱、但し、弐百疋」を献じ、以下、女官である大典侍(おおすけ)・新典侍(しんすけ)・長橋局(ながはしのつぼね)、そして村雲宮の弟子であり「天拝」の口利きをしてくれた観実院、さらにはその他の女官たち「惣御局方」にまで土産物が用意された。

三月六日、「天拝」の当日と翌七日の「記録」の記事を引くことにしよう。

一、六日辰之刻、村雲様より尊神、大御所へ御参殿に相成り候。供奉(くぶ)の御方には、村雲宮様、尤も御忍びにて了達院様・養孝院様、その外観得(虫損)猶又、村雲の妙見様・九名皐諦様も尊神と天拝に成らせられ候。

一、七日早朝、妙淳院師と拙僧、村雲様へ御礼として参殿。宮様へ御対顔仰せ付けらる。昨日、禁裏御所内参台(さんだい)(内)殿(でん)に於いて、天子御拝成らせられ、相済み候へば、御付きの御局方御拝。それより御表役人まで拝礼免(ゆる)され候間、当宮様において御満悦の由、了達院様より御披露に御座候。大御所より尊神へ御備への御初穂ならびに品々、左の通り。

一、金五百疋 禁中様     一、金三百疋 親王様
   御花壱封             御花壱封
一、金三百疋 准后様      一、金百疋 御女中方
   御花壱封
   外に御香拾袋、御菓子品々下し置かれ候。
御内座敷において種々御馳走下され、夜に入り退出。


ページの先頭へ

 鬼子母尊神参殿に供奉したのは村雲宮瑞正文院とその随行者だけ、村雲御所の妙見菩薩像・九名皐諦女神像も同時に御所に入り「天拝」を受けたと記されている。遠妙院らは禁裏御所には入ることができなかったので、「天拝」の様子は、翌日村雲御所で聞いている。孝明天皇をはじめ、女官たち、さらには表役人までもが拝礼をし、瑞正文院も大変お喜びであったと了達院は伝えている。「天拝」に際して、孝明天皇以下から尊神へ初穂金・供花が供された。「親王様」とあるのは、後の明治天皇で、この時はまだ十歳。前年九月に親王宣下(せんげ)を受けたばかりの少年であった。

 この時の「天拝」の様子は、御所の側でも、女官らが日記に書き留めている。

 一人は中山績子(いさこ)。尊号一件に関係した中山愛親(なるちか)の女(むすめ)であり、明治天皇の生母慶子の高祖姑(曽祖父の妹)に当たる。一八三九(天保一〇)年に大典侍(おおすけ)となり、この当時は六十八歳になっていた。三月六日の日記には次のようにある。

 六日 御機嫌よく瑞龍寺さまより摂州中山寺鬼子母神さまご案内にて、御服所(ごふくしょ)中段にて御拝になる。瑞龍寺様皐諦女神さま・開運妙見さま御一所に参内。御備へ・御くわし(菓子)・御花・白かね、女中一とうよりも御そなへ上ぐる。

(『中山績子日記』三七二頁、日本史籍協会、一九一七年)

 「摂州中山寺」は間違いであるが、天皇が「御服所中段」において拝礼したことが簡潔に記されている。

一覧一覧

続く続く


ページの先頭へ