遠寿院

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遠妙院日栄「西海弘通記録」について

遠妙院日栄「西海弘通記録」について(宮崎 勝美教授

 もう一人は押小路甫子(おしこうじなみこ)。幼少の頃の孝明天皇の乳人(めのと)を勤めた人で、この当時は命婦大乳人(みょうぶおおめのと)、五十四歳であった。

 六日(中略)
一、瑞龍寺さまより御願にて、摂津中山寺の鬼子母神とそへ神(副神)、瑞龍寺さまの妙けん御一所に御参内にて、参内殿御二間に御かざりに成る。
一、鬼子母神さま・そへ神さまへ金五百疋ずつ、御花一筒づつ、御くわし、けんしあめ五・かるめら五・けんぴ五つ。
一、妙けんさまへ御備へ、銀五枚、御はな一筒、御くわし同断上がる。雲あしの御台也。
一、惣女中衆より金弐百疋、御三頭様大御乳より金三百疋上がる。妙けんさまへも同断上がる。
一、親王さまより御三方へ金三百疋宛御備へ。
一、准后さまより鬼子母神さま・そへ神さまへ金三百疋づつ。妙けんさまへ金五百疋。御拝に成らせられ候。親王さま・准后さまも御はい有り。女中衆も拝致し候。高松さまはじめ、お八百さま御初め、三仲間も参られ候。局の人々も有り。奥へ出申さぬ人は、右京大夫部屋より参り候よう、大すけさまの御局より御ふれあり。
一、瑞龍寺さまの尼へ御認め御くわし戴かせ候。御礼、女中衆へ参る。
一、瑞龍寺さまより御はな生、御盃御花上げられ候。大すけさま初めへ御重の内下さるる。御三頭大御乳へ三枚重ねの御盃一はこ下さるる。

(『押小路甫子日記』第一、五四二~三ページ、日本史籍協会、一九一七年)

 こちらもなぜか「摂津中山寺」と誤記されているが、天皇・親王・准后をはじめ、女官衆の参拝の様子や供物の内容がこと細かに書き留められている。とくに、まだ参拝していない「局の人々」に、大典侍から参拝を促す「御触れ」が出された、というのは、鬼子母尊神が熱心な拝礼を受けたことを示すリアルな記述として興味深い。


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 さて、このようにして、念願の鬼子母尊神「天拝」はようやく実現した。さらに三月八日には、関東下向を前にした和宮の御所にも招かれ、翌十日からは村雲御所において「御内拝礼」つまり開帳が執行された「記録」の同日条を見よう。

一、十日早朝より天拝尊神、村雲様御本堂に於いて御内拝礼これ有り。拙僧、御神前に於いて参詣の者へ法楽加持相勤め候。助経妙淳院師・大坂梅ヶ枝御祈願所善正寺津□院師・清水様大漸寺日道師。本地を始め、助音数僧。取扱の世話人、表具屋栄助・綿屋新助・土屋栄助・松屋金七・津の国屋弥三郎・津国や文助、其外宮川町連中等始め講中へも御馳走下され候。参詣の者群衆いたし候。

行列の図
 開帳は翌十一日も続けられた。生憎の雨天にもかかわらず、前日同様大盛況だったようで、瑞正文院の生家である伏見宮家から邦家(くにいえ)入道親王・貞教(さだのり)親王らが訪れたり、左大臣一条忠香をはじめとする多数の公家たちも足を運んでいる。

 十三日、鬼子母尊神は村雲御所から大漸寺に移ることになった。遠妙院や妙淳院らが村雲御所に参殿し、瑞正文院をはじめ役人・女中らに、都合九両一分二朱の御菓子料を献じた。瑞正文院から遠妙院には、内拝が滞りなく済んで満足であるとして、「つづれ煙草入れ」「唐銀御紋の御花立て」などが与えられた。

 尊神の大漸寺への遷座には、「年参講」「四七品講」「壽延寺講」など諸講から多数の人々が駆け付け、上下(裃)の者六十六人、羽織袴の者六十人が供奉の行列に加わった。「記録」に記された行列書は左の通りである。(図をクリックすると拡大します


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 長棹(長持)に納められた天拝尊神を左右各十人が警固し、その前には禁裏御所の供物、後には長棒駕篭に乗った遠妙院がやはり左右を固められながら続いている。村雲御所の位置は現在の地名でいうと上京区竪門前町(ただし一九六三年に滋賀県近江八幡市に移転して今はない)、京都御所の西約一キロメートルである。大漸寺は東山区清水四丁目、清水坂に現存する。最も近い経路をとるのであれば、堀川通りを南に下り、途中左折して松原通りを進むことになり、この場合の行程は五キロメートル余りであるが、はたして行列はこの道を通ったのであろうか。比留間尚(ひるまひさし)氏はその著『江戸の開帳』(吉川弘文館、一九八〇年)の中で、江戸において開帳が行われる際の、市中の人々に対する宣伝手段は、一つにはところどころに立てられた建札、もう一つは開帳仏の行列だったと述べている。後者についての記述を引こう。

「もう一つの大きな宣伝は出開帳の場合の開帳仏到着の江戸市中の行列だった。さきの深川浄心寺でおこなわれた身延山の開帳の場合のように、講中が揃いの衣類を着て、大幟を押し立てて江戸の目抜き通りを練りあるく。それは開帳の宣伝として大きな効果をあげるとともに、この間にも信者からの寄進を受けることができた。だから最短距離を直行するのではなく、繁華街を選んで通り、有力町人の寄進を得るように努め、商人たちも、開帳パレードのスポンサーとなることによって、自己の宣伝の機会としていたわけである。」
(百八十八頁)

 天拝尊神の行列も、やはりあちこちに立ち寄りながら、ゆっくりと進んだのではなかろうか。そして沿道には多数の人々が参集していたものと思われる。


 十三日から十九日まで大漸寺にて開帳。これまた連日盛況であったのであろうが、「記録」には、村雲御所から了達院らが代わるがわる参拝に訪れたことが記されているのみで、その他にはさほど詳しい記事はない。


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 大漸寺での開帳を終えた遠妙院らは京都を離れることになり、二十六日、村雲御所へ暇乞いのために参殿、瑞正文院に拝詣し、餞別をもらって退出した。一行は天拝尊神を擁して大坂に移り、四月四日、第二の目的地である長崎に向けて出帆したのである。


 冒頭でお断りしたように、この後三か月余にわたる九州における出開帳の様子は、ここでは割愛することにしたい。遠妙院らは長崎をはじめ、久留米・柳川・瀬高・下関の各地で精力的に働いており、これまた興味深い内容をもっているのであるが、彼らの九州における活動は、実はこの時だけでは完結しない。五年後の一八六六(慶応二)年にも再度その地を訪れているのであり、紹介するとなると、その経過を含めて述べていかなければならない。これはまた他日を期することにしたい。


 さて、九州各地を巡回した遠妙院らは、九月十一日に大坂を経て京都に戻った。同月十三日から十九日まで、大漸寺において再び開帳を行い、二十三日、鬼子母尊神の暇乞いのため村雲御所に参殿した。実際に京都を立ったのは十月十八日のことで、「記録」には記事がないが、この間、村雲御所から遠壽院に対して、瑞正文院染筆の「御額壱面」と「菊藤御紋付き釣提灯弐張・御翠簾(すいれん)壱掛」が与えられており、その際の添状が今も残っている。

今般中山堂の鬼子母尊神像、禁裏御所御拝の儀、相願はれ候に付き、当御所より大奥(禁裏御所奥向の意)へ御願ひ遊ばされ候ところ、聞こし召され、尊神御参内、御内儀にて御拝在らせられ候。これに依って、宮御方、厚き思し召しをもって、内陣へ御染筆の御額壱面、御寄附在らせられ候間、猶、天下泰平・宝祚万々歳・当御所御静泰の御祈祷、丹誠を抽(ぬき)んでらるべきもの也。
    村雲御所
  文久元酉年九月 了達院(黒印)
    養孝院(黒印)
    辻民部(黒印)
  下総正中山遠壽院廿四代  
  観量院日照御坊  

.


中山行堂の鬼子母尊神、兼ねて当御所御信仰の処、御上京にて御拝在らせられ候。殊に、御祈祷成し上げられ候に付き、今般御館入り仰せ付けられ、御宝前へ菊藤御紋付き釣提灯弐張・御翠簾壱掛、御寄附在らせられ候間、永く大切に相用ひらるべく候。弥(いよいよ)妙法広布・当御所御静泰の御祈祷、丹誠を抽(ぬき)んでらるべきもの也。仍って件(くだん)の如し。
    村雲御所
  文久元酉年十月 了達院(黒印)
    養孝院(黒印)
    辻民部(黒印)
  下総正中山  
  遠壽院御坊  


 ところで、遠妙院らが京都に戻った日の翌日、大幅に遅れていた大奥女中村瀬らの一行が京都に到着している。「記録」の記事を見ることにしよう。

大坂表九月十一日発足、上京。清水坂大善(漸)寺へ着いたし候処、この時関東より和宮様御迎へとして花園どの・村瀬方等、同月十二日の御着き。定二郎と申す家来、清水坂へ尋ね来たり申し候には、むら瀬方御道中より御病気にて、御着きにても同様。これに依って拙僧へ御加持御頼みに成られ、十三日より壱七日相勤め候事。その後又々御同役岡野方よりも、右村瀬方の御加持御頼みに成られ候事。精々祈念に依って、大方御全快に相成り候らえども、御本服と申すにてもこれ無く、余程強病の障邪にて、痛はしく候。しかしながら、御利益にてあらましは治り、御用相兼ね、十月十八日京都御発足。拙僧へも道中同道致しくれ候様、御頼みに付き、尾州佐屋宿(さやじゅく)迄御同道申し上げ候事。少々先懸け用事これ有り、佐屋より拙僧どもは先へ出立いたし候。この節内々ながら木銭・穀代の帳面は外にこれ有り候。山表、霜月五日に着仕り候。


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 当初一月に江戸を立つ予定であった大奥女中らは、九月十二日になってようやく入洛したものの、信者である村瀬が道中から病いに苦しんでいたという。依頼を受けた遠妙院が加持を続け、その後ほぼ回復するにいたった。十月、和宮東下の大行列に加わって江戸に戻る村瀬らに、遠妙院らも途中まで同行することになった。文中「内々ながら木銭・穀代の帳面は外にこれ有り候」とあるが、この帳面も遠壽院に伝存されている(「木銭米代請取帳」。中山賄役斎藤徳右衛門筆」。これは休憩・宿泊した宿々に支払った木銭・米代の請取帳であり、「御下向御用に付き当宿へ御泊り」などという文言があったり、中には「当宿の儀は、領主より御馳走に付き、木銭・米代受け取り申さず候」などとの記入があるところから判断すると、遠妙院らは、和宮下向の一行として宿場を利用し、支払った休憩・宿泊代は後日幕府から支給されることになっていたのだと考えられる。おそらくこれは村瀬の取り計らいだったのであろうが、それにしても、「天拝」の実現といい、この待遇といい、村瀬ら大奥女中が果たした役割は、相当に大きかったといわなければならない。

 現在遠壽院には、大奥表使(おもてつかい)村瀬との関係を知る手がかりが、いくつか残されている。本稿冒頭に引用したように、「記録」の中には「村瀬様は、小石川柳町水野氏、聖尊院様の御娘子にて、御信者に入らせられ候へば、」という記述があった。その村瀬の母親の墓と位牌が遠壽院に残っているのである。墓碑と位牌の銘文によれば、法名聖尊院殿浄心日敬大法尼は、一八六一(万延二・文久元)年正月三日に亡くなっている。享年六十二歳。俗名は浪江といい、水野織部守之の女(むすめ)であった。墓碑には「御本丸大奥村瀬女性建焉」とあり、娘である村瀬が建てたものであることがわかる。一八六一年正月といえば、まさに遠妙院らが「天拝」実現のために、また村瀬たちも和宮を出迎えるために、ともに上京しようとしていた時期である。聖尊院は村瀬に説いて「天拝」の件の働きかけをさせながらも、その実現を知らずに他界したのであった。

 もう一つは、遠壽院宗祖像の胎内に納められていた水野重三郎守一とその家族の願文および日課題目である。願文の日付は弘化二(一八四五)年十一月、家督を継いだ二十五歳の重三郎が立身出世を祈願したものである。一八六五(慶応元)年に記された同人の「明細短冊」(『江戸幕臣人名事典』第四巻一二八~九頁、新人物往来社、一九九〇年)によれば、水野重三郎は高4百石の旗本で、小石川築地に居住。祖父水野織部は西丸御納戸(にしのまるおなんど)役を勤め、すでに死去。父水野弥兵衛は西丸御小姓(おこしょう)を勤めて、これもすでに亡い。当人は弘化二年十一月に家督を継いで小普請(こぶしん)入り(無役)し、文久三(一八六三)年三月十六日、講武所奉行支配を仰せ付けられたが、翌月二十一日に小普請組に差し戻された、とある。聖尊院の父水野織部守之とは、ここに見える重三郎の祖父織部と同一人物であろう。つまり、聖尊院は重三郎の母か伯母(叔母)、大奥の村瀬は姉妹か従姉妹に当たるのである。旗本水野家は、このように、遠壽院とは深い関係をもっていたのである。

 このような信仰関係がベースとなって、「天拝」実現の一つのルートは切り拓かれたのであった。そしてまた、京都における両者の関係は、遠壽院側だけが便宜を与えられるという一方的なものではなかったようである。「記録」にも明記はされていないが、村瀬らの和宮出迎えに当たっては、遠妙院らが何らかの手助けをしたように思われる節があるのである。「記録」の中で気にかかる記述を一つだけ掲げよう。二月十五日、村雲御所に参殿した遠妙院が、了達院に上京の趣意を申し述べるくだりである。


 御一老了達院様より再御上京の様御尋ねに付き、今般御本丸御迎への御女中御上京に相成り候らえば、従来心配の儀、相成るべきの御手続きを以て願ひたく、且つは御上覧御一条に付き、御迎への御方々御上京に付き、御内々用事も御座候。右等の用事相兼ね、上京仕り候由申し上げ候。


 文意を正確に解釈するのは困難であるが、「従来心配の儀」の「御手続き」といい、「御内々用事」といい、上京の目的が「天拝」だけではなく、大奥女中らに関わる何らかの使命をも帯びていたことを窺わせる言い回しである。そう言えば、九州各地を回ってから再び京都に戻ったのが村瀬らの到着の前日であったことも、まったくの偶然ではなかったのかも知れない。判断の材料が不足しているので、これ以上推測を重ねることは差し控えるが、鬼子母尊神の「天拝」が、遠壽院と旗本水野家や大奥女中村瀬たち、そして京都の村雲御所など、さまざまに取り結ばれた多様な関係の中で準備され、幕末の動乱の中で進行した公武合体運動とその重要な環である和宮下向という政治的事件とも微妙に絡み合いながら実現した出来事であったことは、これまで紹介してきた史料によって十分確認できるところである。鬼子母尊神「天拝」のもつ意味は、これら多様な宗教上の関係と政治的背景をさらに検討していく中で、より深く掘り下げていくことが必要であろう。

(みやざき・かつみ 東京大学史料編纂所)

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